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細かい随筆がたくさん入っていて、おばあちゃんの引き出しを開けたような感覚。
著者本人も気づいたら溜まっていて一冊の本になったと語る。
父露伴先生に教え込まれた掃除の話が一番感銘を受ける。
掃除で使う「水」について。
今はバケツに水を入れて雑巾を絞って廊下を雑巾がけするなんてこと、なかなかしないけれど、当時はそれが普通であった。
その際の雑巾の扱いである。バケツへは水は多すぎず、汚くなったらこまめに変える。雑巾はもちろん固く絞る。
その後である。その水に濡れた手をどうしているか?である。
意外とポタポタとそこいらへんにこぼしていやしないか?
その滴の痕は意外と目立つのだ。そこに気づく人もいるのだ。
ほほう、となる。
全ては、気を使うかどうかなんだと。
全然話が変わってしまうが、わたしは幼い頃祖母に銭湯の入り方を教わった。
体を洗う時水を跳ね飛ばさない、使った桶は垢をきちんと落としてかたす、脱衣所へ上がる前に体を拭く
当たり前のことかもしれないけれど、やっぱり教えてもらわないとできなかったかもしれない。
特に今は家庭に風呂があるのが当たり前で、温泉へ行くと、わたしは昭和一桁のおばあさんのように閉口してしまったりする。
でも、全ては気を使うかどうかなんだ。
次に入る人のため、後ろで体を洗う人のため。
そういう細かな気遣いができる大人でありたいと思う。
動物は好きですか?犬?猫?小鳥?象?
そんな身近な動物たちから、動物園でしか会えない動物にまで目を配り、愛おしんで書いているのが伝わってくる作品。
特に、少女の頃買っていた愛犬フェスの話は秀逸だ。フェスがモデルになった小説「町の犬」も涙なくして読めない。
また、父露伴先生の(あんな怖い人が)動物をやはり愛している姿にとても微笑ましいものを感じる。
動物の可愛らしい話だけではなく、わたしはこの本に”孤独”と”死”を感じた。
貧しい駄菓子屋のおばあさんと猫の話などは、現代にも通じる”孤独”を浮き彫りにしている。
でも、その”孤独”の隙間に猫や犬は寄り添ってくれている。
そして、生き物を飼うということは、その”死”を看取ることでもある。
死なれてしまうと、もう動物なんて飼わないと言うくせに、やっぱり飼ってしまう弱いのも人間である。
そこをすべて見通していたのが、やはり露伴先生で、一つ一つの言葉に重みがある。
動物が好きな人、涙なくしては読めないけれど、おすすめです。
TRANSIT編集長さんのTwitterに「平凡ないつもの生活の中で何も感じることがないなら、世界中どこを旅しようと感じるものはない」という言葉があったが、
まったくその通りだと思う。
幸田文の「旅の手帖」では、さまざまな場所にさまざまな目的で旅をしているが、そのどれもが新鮮な目線で描かれている。
でも、その新鮮さは、彼女の普段からの洞察力に他ならない。
彼女の日常を綴ったエッセイを読むと、その洞察力には圧倒される。
そして、それがさらに研ぎ澄まされた形で旅の上で発揮されるのだ。
わたしたちはあまりにも多くの表現方法を失ったような気がする。
何かに心揺れ動いた時、「かわいい」「きれい」「すてき」そんな一言で済ましてしまう。
わたしもそんな一人だと思う。
どんなに仕事に追われて忙しい毎日でも、心をはっとさせられることがあるはずだ。
その感情を一言で済ますのではなく、心豊かな表現ができたらいいのに。
そうしたら、次の旅はもっと豊かで深いものになる。
「旅の手帖」はわたしにそんなことを強く思わせる本だった。
高名な文豪を父に持った一人娘が、その父の死をきちんと記録しなくてはならない、
2012-03-04 14:54:34「将来露伴を研究する誰かがあれば役に立つかもしれないというばかり」の思いで父の死と向き合った。
看護で疲れ果て朦朧とした頭が一瞬冴えた時でさえ彼女はこう思うのだ
「いかにして父は病み死んでいくか見届けなくてはいけないのだとあせった」
その父も自分の死をしっかり見つめていた。”終わる”ということについてこんな言葉があった。
「花がしぼむのも鳥が落ちるのも、ひっそりしたもんなんだよ。きっと象のようなものだってそうだろうよ」
また、本当に亡くなる寸前には
「このあけがた、父はやや長く私と話し「じゃ、おれはもう死んじゃうよ」と云った。さっぱりと雲が晴れたように、父はかならず死ぬとわたしはきめた。」
死とはなんなのか、それは誰にもわからない。
最近の映画やドラマではやたらロマンチックに美しく死んだりする。遺された者が激情に悶えるような場面も多い。
この随筆の中の「父の死」は、とてもクールに見える。親子の情が薄いのではないかと思える場面すらある。
「お父さん、死にますか?」そう問いかけたりするのだから。
でも、こんなに真摯に父親の死を記録した随筆もないのではないか?
そしてひとりの女性が、娘としてここまで父の死に向き合うことの過酷さも思い、
幸田文という女性の、芯の強さを感じるのだ。
わたくしごとだが、昨年末から今年にかけて祖母の体調が思わしくなく、あわや入院か?という時があった。
そんな時に祖母が言った言葉がある
「色んなところが悪くなったり良くなったりしているうちに、それでいつか終わっちゃうんだよ。年寄りなんてそんなもんなんだ」
そんなこと言われたら、おばあさん子のわたしは堪らなくなるのだが、祖母が案外冷静にそういうことを見つめているのだなと、はっとさせられた。