善導大師が「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず」(『教行信証』信文類・引文)と言われる場合の「自身」とは、時空を超えた永遠の自己のことです。有限の時空の中の人間としての自己のことではありません。時間の中の自己は、この人間として何年何月何日に始まったのです。けれども、それは人間としての自己の始まりであって、自己そのものの始まりではありません。自己そのものには時間的な始めも無ければ終わりもない、と善導大師は教えておられます。
ハイデッガー研究などで知られる著者ですが、歌人としても有名で、親鸞聖人が論理的思考と概念的言語をもって解明しようとされた『教行信証』ではなく、詩的言語によって述べられる『和讃』を丁寧に読み解いてくださいます。リズムをもった詩的言語が、わたしたちを概念語では届かない一段と深い事柄の次元に導いてくれる、というの著者の『和讃』に対する理解を通して、親鸞聖人がわたしたちの情動に響かせようとされた労作の数々が温かく解きほぐされていく様は、これまでのわたしの真宗理解がいかに浅かったかを知らしめるものでした。
「この私を離れて阿弥陀さまが特別におられるわけではないのです。なぜなら、もしこの私と対立する人格として阿弥陀さまがおられたら、それはやはり一種の我の存在に過ぎないからです。キリスト教の神さまと阿弥陀さまの違いは、ここにあるように思います。
阿弥陀さまは、衆生の対象ではなく、衆生と同体です。私の生死の苦しみが阿弥陀さまのいらっしゃる場所なのです。もし私だけが苦しい世界にいて、阿弥陀さまは苦しみのない世界に離れていらっしゃるのであれば、そういう阿弥陀さまは慈悲のはたらきではない。そこでは衆生と阿弥陀さまとが白々と対立しているだけであります。」
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Manabu Fukui