僕がいまだ哲学書を読めないということの原因の30%くらいは、僕の基礎学力、特に、読解力の低さにあるのではないかと思う。残りの70%は、外国語であること、そして、その語学のネイティブでさえ高等教育を受けていなければ、読めないほどの哲学書の持つ難解さに起因するだろう。
多くの人には好みの文体、読みやすい文体がある。僕には皮相な文体のかっこよさをありがたがる傾向があり、また、そのような表層的な修辞を凝らした文体を習得したいという欲望がある。基本的な読み書きができないにもかかわらずだ。
したがって、人文学の学問をする上で必要不可欠な、論文・レポートの書き方を、改めて学びたいと考え、この本を手に取った。この本は、論文の書き方の指南書として、役に立つだけでなく、この手の本にとって、恐らく、例外的に、面白い。読んで笑ってしまう文書読本はなかなかないだろう。
まずは役に立つところから挙げよう。論文とは、問い、主張、論証を含むものであるという内容面での定義が与えられ、また、形式的な側面にも目配りがされている。論文には型がある。まずはその型を体得するべきだ。どのような文章が論文であるかがわかったからといってすぐに書ける訳では、もちろんない。だから、アイデアのふくらませ方としてアウトライン、そして、論証の方法、パラグラフの作り方などまで書かれいる。まさに、痒いところまで手が届いている。
ついで、なぜ面白いかである。それは、本書の多くの部分が先生と作文へた夫君との対話から構成されているためである。この対話に、戸田山節が炸裂している。これが、笑えるのだ。また随所にパロディが含まれており、司馬遼太郎、蓮實重彦、『あずまんが大王』など元ネタがわかると思わず笑ってしまう。
最後に、なぜ書くことが重要かということについて触れておきたい。それは、言語を媒介とした理性的なコミュニケーション能力を身につけることが、西洋的な教養概念であるフマニタスにとって必要不可欠だからだ。古代ギリシア・ローマでは、公の場で知的なコミュニケーションができることが、自由な「人間」の条件だったのだ。その伝統の上に築かれた近代社会・現代社会でも、そのようなコミュニケーション能力は「人間」であるための条件として不可欠だと思う。自らを「人間」へと啓蒙した上で、超人になるのか、動物的に生きるのか、あるいは、その他の選択肢を選べばいい。
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Hiroki Hayashi