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この10年の鈴木邦夫の言動を見ていると、このひとって本当に右翼なんだろうかと、この本を読んでつくづく疑問に思う。森達也あたりと並ぶ、生粋のリベラリストのようにしか見えないんだが…。
そんな前置きは置いておいて本の内容を。
同じ思想を共有し、「革命」という目標に向かって国家権力とたたかう集団。高度な理論に裏打ちされた「鉄の」規律も秩序もあるはずなのに、互いが互いを疑い、ついには殺し合いにまでいたる。この本を読んでいちばん感銘を受けたのは、どうすれば人の猜疑心を増幅できるか、内輪モメを惹起できるか、ということであった。
こうした内ゲバを背後から糸を引いているのは、まぎれもない公安警察だと、鈴木氏は推測する。
氏によると、「組織の内部に公安のスパイがいる」「スパイからの通報で逮捕した」という噂を公安自身が意図的に流すことで組織内部の疑心暗鬼を誘ったのだという。「公安のスパイが仲間にいるわけではない。しかし公安を過大視し、その巨大な影に怯え、不安に駆られる。そして勝手に殺し合いをする」。組織の結束が強ければ強いほど、機密性が高ければ高いほど、「公安のスパイがいる」という噂が生むインパクトは強いわけだ。
内容の少なからぬ部分が伝聞であることから、公安警察の実態が鈴木氏の言うとおりであるかは知るよしはないが、彼自身、右翼団体の元幹部として公安警察の「被害」を受けているわけで、語るところにはかなりの説得力がある。
市中にデモへ出ている人びとは、なぜヘルメットにサングラスという出で立ちをするのか。それは公安警察のブラックリストに載る危険があるから。彼(女)らはたいへんな勇気と覚悟を持ってやっているのだ。そんな勇気を持ち合わせていない臆病な自分のちっぽけさも痛感する1冊。
自分の手には余るテーマだけれど、こういう時世だからこそあえてレビューを。3.11を受けて、原発のありかたの是非を根源的に問う哲学書。問題設定は実にシンプルだ。かくも危険な存在である原発を人びとはなぜに容認してしまうのか。
その答えはしごく簡単で、「原発はもともと相当に安全に造られているのだから、一切の原発の建設を諦めるというような極端に走らなくても、事故を起こさずに済むのではないか、と。…「われわれ」が極端に用心深くなって、原発を放棄してしまえば、「われわれ」だけが損をしてしまうのではないか、と。要するに、原発の建設を一切禁止するという極端な予防策は無意味ではないか、と。こうした思いが出てくれば、結局は、原発の建設に踏み切ることになる。」(55)
では中長期的な視点で脱原発を実現するために、「どのような前提が受け入れられ、満たされたとき、こうした(脱原発への)理路に有無を言わせぬ説得力が宿るのか」(15)ということだ。
この問いに対する結論は第3章で明かされる。すなわち、「未来の他者との連帯」にこそ解決の鍵はあるという。その「未来の他者との連帯」とは、子や孫という身近者に対する“想像力”ではない。「現在のわれわれへの不安と救済への希望」だという。
「「現在のわれわれ」は、説明しがたい悲しみや憂鬱、言い換えれば、この閉塞から逃れたいという渇望をもっているだろう。 その悲しみや憂鬱、あるいは渇望こそが、未来の他社の現在への反響ーー未来の他社の方から初めて対自化できる心情ーーなのであり、もっと端的に言ってしまえば、未来の他社の現在における存在の仕方なのだ」(149)
この文面を見ると、「今の不安を解決するための行動こそが未来につながる」という、しごく簡単なことをわざわざ難しいレトリックを用いて説明しているように思えるが、カント〜ヘーゲル〜マルクス〜ウェーバー、そしてアメリカの自由主義という思想的な手続きを踏んだうえでの結論なので、単なる言葉遊びではない。
4章・5章は、より具体的に変革を担う主体としての宗教と階級に焦点を当てる。いうまでもなくウェーバーとマルクスの再解釈にあるけれど、本書の主題を理解するには3章までで事足りる。
『クッキーシーン』という音楽雑誌は、今思うと不思議な立ち位置にいて、『rocking on』『Crossbeat』が扱うようなメインストリームとは距離を置きながら、かつての『米国音楽』のようにアーティスト/音源を積極的に発掘・提案するわけでもなく、かといってクラブカルチャーにすり寄ってもいない。それでいて、いわゆるロックの範疇からははみ出ない。そこそこにニッチで、そこそこにマニアックで、先端的で、そして“おしゃれ”なアーティストやジャンルを手広く押さえる。
かつてはREMなどのUSインディを初めてとして、ステレオラブやトータスといった音響系、最近ではモグワイやプレフューズ73、あるいはコーネリアス、アラブ・ストラップ、ボーズ・オブ・カナダといった、「音楽好き」の琴線を刺激するアーティストを積極的に取り上げる媒体という印象。
前置きが長くなってしまったが、本書はその名の通り、米国のインディレーベルを地域別にまとめたカタログ書。地域のレーベル概説、代表的なインディレーベルの紹介に続いてレーベル出身アーティストのディスクガイド(当然インディ時代の)が続く。キャット・パワー、チボ・マット、ソニック・ユース、ショーン・レノン、そしてジョンスペ、マーキュリー・レヴにトーキング・ヘッズ…これらの共通項は? ニューヨークで活動し、ニューヨークのレーベルから音源を出したアーティストたちだ。こういう切り口はとてもユニークで、読んでいくとアヴァンギャルドな東海岸、雑食性の高い西海岸、保守的な南部というような区分けがはっきりしてくる(もちろん例外ってある)。
SST、Thrill Jocky、K、Kill Rock Stars、Touch
英国の書籍編集者による編集技術と心構えを説いたレクチャー本。サブタイトルにもあるように、著者とのつきあい方から社内調整、企画書の作成方法といったHow toを細かく指導していくものだが、読み進むにつれて筆者の職業愛が全面にでてきて、最後の方では編集という仕事のやりがいについて、ひたすら情熱的に説いている。英米のこの手のテキストは、非常に実践的かつ技術的でありながら書き手の情熱の表現を自制することなく書き上げられたものが少なくない。
本書では、著者との人間関係をどう構築するかというところにかなりのページが割かれている。書籍とWebという違いはあれど、この根本部分に変わりはない。寄稿してくるライター陣(だけでなくカメラマンやデザイナーも含む)の質をいかに見極め、信頼関係を構築し、彼ら・彼女らのモチベーションを引き出しながら能力を最大限に発揮してもらえるか。それが媒体の正否を決定づけるといっても言っていい。当然ながら、社内の営業担当やクライアントに代理店、そして最も重要な読者の存在だって無視できるものではない。本書では、こうした人間関係のハブたる編集仕事のスリリングさ、やりがいを強く強調する。
「どのようなルートで編集者になるにしても、今やあなたは技術と努力を求められる仕事についている。それに正面から取り組むことができれば、やりがいも影響力もあり、変化に富んだ、そしてとりわけ刺激的な仕事であることがわかってくる。これは特権的な地位であると言っていい。こんなに満足感を得られる職に多くの人がつけるわけではない」(247)
「社内で、あるいは他の職業との比較においても、編集者の存在を特別なものにしているのは、自分の努力を形あるもので示せることである。…一冊の本は多くの人間の手と頭脳がからみあって世に送り出されるものである。その結果は関わったすべての人間が手にできる小さな奇跡だ。しかし、編集者は著者をのぞけば唯一、その本の存在そのものを生み出したと主張できる人物である。それこそが満足である」(248)
どんな職業にだって魅力ややりがいはあるだろうし、仕事以外にも人生の楽しみは山ほどあろうが、まったくの無から有形を作り出す産みの苦しみを乗りこえる過程を楽しいと感じることのできる極度のマゾヒストにとっては、この上ない職業なのかもしれない。
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米国の大学で教材として使われているというロックミュージックの概説史を邦訳したもので、1940年代から90年代まで、ロックの様式分化と融合を時系列で概説する。
2012-09-22 16:41:26ジャンルはおおよそ時系列で章立てされていて、前巻はブルース、カントリー、ゴスペルというロックのルーツから70年代前半のサイケデリックおよびカントリー・リヴァイヴァルまでが記述され、 後巻ではシンガーソングライター、ファンクの隆盛からパンク/ニューウェーヴ、80年代中盤から90年代初頭にかけてのオルタナティブまでを含む。
それぞれの章ごとに、楽譜付きのリスニングガイドにくわえて、テンポ(BPM)や詞、楽曲構成、楽器構成なども記載されており、文字通りに教科書的な構成。クラシック音楽の音楽史をロック・ミュージックに応用したみたというものと見なすことができる。形式的に見ればディスク・ガイドというより楽曲ガイド・アーティストガイドに近いが、引用曲の購入情報(国内盤情報も含まれる)はしっかり記載されており、その意味でも良質なディスク・ガイドとしても機能している。
教材であるゆえに用語解説・索引・年表など付属資料も充実しているので、事典のように常にかたわらに置いておきたい。トレンドに乗ったジャンルをちょっとお手軽に選盤してみました的なノリではなく、解説もリスニングガイドもひたすら丁寧に吟味してつくられているというのがいい。ちなみに上下巻ともすでに絶版。望みを言うなら、2000年代の情報をアップデートした新版が見たいところ。あと価格ももうちょっと手頃だと嬉しい…