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さんた、ま、りぁ、りぁ、りぁ―<幻視>の構造
わが連想かぎりなく残酷となりゆくは降り積めし雪の翳くろきゆゑ 葛原妙子
塚本邦雄によって<幻視の女王>と呼ばれた葛原妙子であるが、短歌において幻を視るとはどういうことなのだろうか。また、その不思議な力の源泉はどこにあるのか。
天体は新墓のごと輝くを星としいへり月とし言えり
白鳥は水上の唖者わがかつて白鳥の声を聴きしことなし
草上昼餐はるなりにき若者ら不時着陸の機体のごとく
老いたる爬類のごとき大学に学生あらざりし雪降りてゐる
没りつ陽の黒きになればロダン作る 考へる人、ましらのごとし
風媒のたまものとしてマリアは蛹のごとき嬰児を抱きぬ
葛原妙子の表現の上には、一貫してひとつの強い偏向を読みとることができる。例えば、上の引用歌にはいずれも作品の核として比喩や見立てが用いられているのだが、それぞれの作中で何が何に喩えられているのかをみれば、その偏りは明らかである。
【対象物】 【比喩・見立て】
天体(星、月) 新墓
白鳥 水上の唖者
若者ら 不時着陸の機体
大学 老いたる爬虫
考へる ましら
嬰児(イエス・キリスト) 蛹
すべての組み合わせに共通しているのは、この世でも最も美しいもの、重要なもの、可能性にみちたものが、強引とも思える連想の飛躍によって、ネガティブな存在と結びつけられているということである。この見立ては確かに強引でありながら、同時に怖いほどの説得力を持っている。作者は対象物のなかに常人にはとうてい感知できないような負のニュアンスを見い出して、自らの表現のなかに拡大定着させる。この<幻視>的な表現の説得性は、何よりも対象の本質をつかむ力の強さに因っているのだが、作者の場合、それが負の方向性と分かち難く結びついているのだ。ここでは、<幻視>とは、美しく重要な可能性にみちたものに強烈な視線を当てることで、存在そのものを反転させる力のようにすら感じられる。
ブッティクのビラ配りにも飽きている午後 故郷から千キロの夏 早坂類
工事中のランプをぬすんできてしまう祐一が猛暑のトビラをたたく
長生きができたらいいな ひまわりの黄は漆黒にあんがい似てるね
夕立にもっともっと濡れたげな君はソーダをすっすと飲み干し
プラトンはいかなる奴隷使いしやいかなる声で彼を呼びしや 大滝和子
収穫祭 稜線ちかく降りたちてbetweenやupやawayを摘めり
ロザリオのごと瞬間のつらなれる一日終えつつ脈はやきかも
眠らむとしてひとすじの涙落つ きょうという無名交響曲
え、と言う癖は今でも直らない どんな雪でもあなたはこわい 東直子
白秋やひんやり風の吹く朝にみいみい鳴いて止まるエンジン
羽音かと思えば君が素裸で歯を磨きおり 夏の夜明けに
柿の木にちっちゃな柿がすずなりでお父さんわたしは不機嫌でした
どんな雪でもあなたはこわい―宙の知恵の輪
枕木の数ほどの日を生きてきて愛する人に出会はぬ不思議 大村陽子
一首の魅力の核は、「愛」の「不思議」にあるのだが、例えば、作者がこの歌を作った直後に「愛する人に出会っ」たとしても、この不思議は解けたことになるだろうか。
出奔せし夫が住みゐてふ四国目とづれば不思議に美しき島よ 中城ふみ子
作者の頭上に浮かんだ知恵の輪は巨きく、その煌めきに統べられた彼女の意識の中で、「四国」は「美しき島」へと鮮やかな変容を見せている。
宙の知恵の輪は、現実の物語の顛末や愛の成就をすら超えて、一首のなかに在り続ける。その美しさはひとえに、知恵の輪の強度、つまりそれが永遠に解けないことに因っている。誰にも触れたことのできない知恵の輪は、すべての恋人たちが死に絶えた後の空に煌めき続けるだろう。キーワードは宙の知恵の輪、すなわち愛の希求の絶対性である。
愛の希求の絶対性は、すべての表現を通じて最も大切な要素だと信じるが、特に若い女性作家の歌をみるときに、私はまずのこ宙の知恵の輪のありかとその強度を思わずにはいられない。
風惑星ふるえる夜のわたくしはもの思いする 近づくな君 小守有里
ぼたんゆきのような台詞をくり返すひと 月夜でも負ってはゆかない 同
レコオドにはりおろすごと細心に告げたき想ひ抱きて歩む 関口ひろみ
きみが笑はざれば笑へぬ今日のわれ雨脚はじく舗道見てゐる 同
君に逢う 風の坂道降るときクレッツェンドのわたしのカノン 飯沼鮎子
いちまいの扉のごとき背中あり叩けば君のさみしさ聞こゆ 同
私はこれらの歌を信じることができない。歌の内容が信じられないわけではなく、私が求めたいと思う愛の希求の絶対性を、そこから充分に感じ取ることができないのである。これらの歌における愛の知恵の輪は、現実の恋人の優しい言葉や仕草によってたやすく解けてしまうのではないだろうか。そしてあとには幸福な恋人同士が残るだけだと思う。
この本には「話し方」「書き方」という自分を表現するときに、何をすればよいかが、一定の方法に基づいた科学的な知見から、具体的に書かれている。たいていの自己啓発本が著者の個人的な成功体験を過度に一般化した方法を語っているのとは対照的である。
また、コミュニケーションという誰もが既にそれぞれの経験の中で身につけていながら、漠然と不安を抱いている能力を客観視するためにも、この本は有効だろう。
最も好感が持てるのは、コミュニケーション能力は、アポステリオリなもであり、訓練次第でいくらでも上達するということを肯定的に強調している点である。そして、その訓練の方法が具体的に書かれていることである。改めて取り上げれば、何を当たり前のことをと感じるであろう。僕も書きながらそう思う。しかし、「コミュニケーション能力がないと駄目だ(仕事がない、恋愛ができないなど)」と扇情的に語り、不安を煽るようなことをしながら、では、具体的にとうすればいいのかということを語らない人が多いのだ。
「自分の頭で考えろ」というのが彼らの答えだろう。その答えはかなりの部分正しいが、同時に、一面的であるように思える。コミュニケーションの型を知らない、あるいは、誤って身につけている段階で、過度な自由を与えられても困惑するだけだ。そこで結果的に現れる言動は個性などではなく、ただ基本や標準を知らないということを暴露するだけだ。この社会で、基本的なコミュニケーション能力の型を身につけていないということは、不利なのだ。恥ずかしいといったような情緒的な表現で語り、人格攻撃をしないで欲しい。
社会を生きる上で、就職するのも、働くのも、能力を認めてもらうのも、配偶者を見つけるのも、よりよい人間関係を築いていくのも、すべてその人の自己表現能力に負うところが大きい。それだけの影響力があるものでありながら(あるいは、あるからこそなのか?)、コミュニケーション能力の具体的な様相を語らない。それは狡くないのか。個人の性格などに還元せず、いかに不利であるかをアナウンスするべきではないのかと私怨をこめて思う。生まれつき話が下手な人がいるわけではないし、生まれつき書くことが下手な人もいない。訓練次第で上手くなりうるということを希望を持って語るべきではないのか。
1.桐壺:その昔 闇の中から光が生まれる
2012-06-09 14:24:23桐壺帝に寵愛された更衣は、美しい第二皇子を産んで死んでしまう。帝は、第一皇子が春宮に立たれるに際し、光源氏を、高麗の相人のうらないに従って臣籍にお下ろしになった。元服した源氏は葵の上と結婚するが、亡き母更衣にかわって入内した藤壺宮を思慕するようになった。
2.帚木:眠れる夜 つれづれなる夜
五月雨の降り続くある夜、源氏は頭中将らから経験談や女性論を聞く[雨夜の品定め]。その翌日、源氏は方違えにかこつけて中川の紀伊守邸を訪れ、その後、空蝉と契った。
3.空蝉:そして 男と女の戦さが始まる
源氏は空蝉の弟小君の案内で、紀伊守邸を訪れ、空蝉が軒端萩と碁を打っているさまをかいま見る。その夜、空蝉の部屋に忍び込んだが、空蝉は源氏との再会を拒んだ。
4.夕顔:白い花よ 十代の終わりに短くも咲け
源氏は重病の第弐乳母を五条の家に見舞い、惟光のはからいで隣家の夕顔を知り通い始めるが、やがて夕顔は、源氏が連れ出した近くの荒廃した某院で、物の怪にとりつかれて死んでしまう。夕顔には頭中将との間に女の子がいた。
「一口に”古典”で片付けられてしまう様々な作品群を見ていると、今の文学というのはなんと寂しいものだろうと思う。生き生きした話し言葉の文学もなければ、壮麗典雅な大悲劇もない。そういうものは全部アリだと思うのに。今度の私の源氏物語は、ただ一言、絢爛豪華をやりたい―これに尽きる。絢爛豪華で重くて難解で、でもやっぱりそこにあるのは人間のドラマで、千年前に、人はこんなにも豪華に現代の悲惨を演じていたという、そんな話。日本語ってこれだけ凄いんだぞ―。」(橋本治)