確かな自己の所有物の中で頑なに自閉しようとするとき、未来の不確実性の前にたじろぎ、他者の異質性に対して心を閉ざし、創造的自由を諦めて出来合いのものに甘んじて、新しいものとの出会いを拒否するとき、このような実存の形式をキリスト教の伝統は<罪>と呼ぶのである。
2012-02-18 04:13:33 207pそれでは神を愛することができず、神との愛と信頼の中に生きることができない人はどうなるのか。キリスト教の立場から言うなら、「それはそれはお気の毒に」と言うしかないのである。
2012-02-18 04:05:13 206pそもそも愛を命令されたり義務として課せられたところで、愛せない者を愛せるようになるわけではない。愛はもともと愛さずにはいられない力をその対象から贈られてこそ、泉から水が湧き上がるように、滾々と溢れてくるものなのである。義務として命令されても、道徳に強制されても、そんな溢れるような力がなければ、われわれは虚しくひからびた愛の滑稽な模造品で満足するよりほかはない。
2012-02-18 04:01:55 206p生そのものが希望を育む力を持っている。もしわれわれの生が何の新味も生み出さない機械的な反復にとどまったり、すべてが決定されてしまっているものであったなら、すなわち現在を打開していく自由のいかなる可能性もないことが明らかであれば、われわれは希望を持つことができないだろう。
2012-02-18 03:53:32 204p世界を創造することで、あまつさえ人間という不完全な自由意志をもち、罪(神からの離反)をあえて犯しうるような存在を創り出すことで、神はむしろ多くの問題を、無限に多くのやっかいを創り出してしまったのではないか。それにもかかわらず神が、皆無よりはこの世界の存在を欲したのはいったいなぜか。それは神の無償の愛によるとしか言えない。神は己れの存在の完全無欠な充実した自閉よりは、不完全で無限に厄介な問題の源泉である他者の存在をあえて求め、それを肯定したのである。
2012-02-18 02:57:27 203pWow! ノートはまだありません
Satoshi Shiozawa