高名な文豪を父に持った一人娘が、その父の死をきちんと記録しなくてはならない、
「将来露伴を研究する誰かがあれば役に立つかもしれないというばかり」の思いで父の死と向き合った。
看護で疲れ果て朦朧とした頭が一瞬冴えた時でさえ彼女はこう思うのだ
「いかにして父は病み死んでいくか見届けなくてはいけないのだとあせった」
その父も自分の死をしっかり見つめていた。”終わる”ということについてこんな言葉があった。
「花がしぼむのも鳥が落ちるのも、ひっそりしたもんなんだよ。きっと象のようなものだってそうだろうよ」
また、本当に亡くなる寸前には
「このあけがた、父はやや長く私と話し「じゃ、おれはもう死んじゃうよ」と云った。さっぱりと雲が晴れたように、父はかならず死ぬとわたしはきめた。」
死とはなんなのか、それは誰にもわからない。
最近の映画やドラマではやたらロマンチックに美しく死んだりする。遺された者が激情に悶えるような場面も多い。
この随筆の中の「父の死」は、とてもクールに見える。親子の情が薄いのではないかと思える場面すらある。
「お父さん、死にますか?」そう問いかけたりするのだから。
でも、こんなに真摯に父親の死を記録した随筆もないのではないか?
そしてひとりの女性が、娘としてここまで父の死に向き合うことの過酷さも思い、
幸田文という女性の、芯の強さを感じるのだ。
わたくしごとだが、昨年末から今年にかけて祖母の体調が思わしくなく、あわや入院か?という時があった。
そんな時に祖母が言った言葉がある
「色んなところが悪くなったり良くなったりしているうちに、それでいつか終わっちゃうんだよ。年寄りなんてそんなもんなんだ」
そんなこと言われたら、おばあさん子のわたしは堪らなくなるのだが、祖母が案外冷静にそういうことを見つめているのだなと、はっとさせられた。
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Ai Yonekura