「私たちは知性を計量するとき、その人の『真剣さ』や『情報量』や『現場経験』などというものを勘定に入れない。そうではなくて、その人が自分の知っていることをどれくらい疑っているか、自分が見たものをどれくらい信じていないか、自分の善意に紛れ込んでいる欲望をどれくらい意識化できているか、を基準にして判断する」
「もし中学生たちに教えるべき『この困難な時代を生き延びるための知識』があるとすれば、それは(藤岡の言葉を借りれば)『声の大きい』やつの言うことを信じるな、ということに尽くされるだろう。風説を信じるな、メディアを信じるな、教科書を信じるな、教師を信じるな、親を信じるな、いまこう語っている私の言葉を信じるな。このダブルバインド状況に耐える知性を自力で研ぎ上げてゆくほかに、子どもたちが成熟し自立するための手だてはないと私は考えている」
「私たちは知性を検証する場合に、ふつう『自己批判能力』を基準にする。自分の無知、偏見、イデオロギー性、邪悪さ、そういったものを勘定に入れてものを考えることができているかどうかを物差しにして、私たちは他人の知性を計量する。自分の博識、公正無私、正義を無謬の前提にしてものを考えている者のことを、私たちは『バカ』と呼んでいいことになっている」
「回答が適切であったかどうか、それは『問いかけもの』が決定する(たとえ、一生懸命『答えた』としても、『努力が足りない』とか『反省が足りない』という査定をされる可能性は残る)。これはかなりストレスフルな社会的ポジションのとり方である。もちろん、そういう立場をとることを避けられない場合が、人生にはしばしばある。そのきつさは何かに似ている。一番似ているのは、そう。『受験』である。『受験生』というのは、『設問があって、それに回答すると、その適否を誰かが採点してくれる』という『原信憑』のうえに構築された人間のあり方のことである。広義での『受験生』は学校だけにいるわけではない。企業における勤務考課(『来月の売り上げ目標をいかにして達成するか?』)も、文壇における文芸批評(『真に新しい文学とは何か?』)も、ある意味では『受験生』的エートスの培養地である」
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Hiroki Hayashi