輸入学問の“功罪”とあるが、本書で指摘されているのはもっぱら“罪”のほう。
学生時代、ドイツ語も英語もできず、そして今でもロクにできない自分にとっては、翻訳書だけが頼り。が、その翻訳書もとにかく苦手だった。主語と述語の関係が曖昧で、聞き慣れない修飾語がふんだんに持ち込まれる独特な文体は、日本語としてまるで理解できない。この読みづらさは自分の勉強不足のせいなのかと煩悶したり、有志の勉強会などでは、訳者が悪いと一方的に決めつけて片付けることもしばしばだったのを思い出す。
筆者の鈴木直氏によれば、翻訳書の読みづらさは逐語訳文体の伝統に由来すると断ずる。原文に忠実であろうとするあまりに、日本語としての読みやすさは無視される。
いや、むしろその「読みにくさ」こそが、(カント、ヘーゲル、マルクスら哲学の大家がとなえる)“真理なるもの”へ到達するために必ず通らなければならない道となるわけだ。その理解不能な“真理への道”は普遍化され、権威付けされていく。すなわち「真理は細部に宿るがごとく、権威主義は文体に宿る場合がある」(58)。
そしてついには市場の原理からも手厚く守られた一種の文化的な保護膜をかたちづくるという。
「表現の快楽を抑制する倫理的なリゴリズム。具体的内容よりも抽象的操作を、意味よりシンタックスを、文脈よりも文法を重視する翻訳態度。原著への跪拝と読者への無関心。そこに欠落しているのは、訳者が同時に読者の目で訳文をたえず修正していく重層的で対話的な構造だ。
立ち止まって考えてみれば、あの翻訳文体は、市場が生み出す消費文化から、あるいは世界共同体に組み込まれた国際関係の現実から目を背け、空疎なレトリックで自我の反問を表明してきた若きエリートたちの孤独感と社会化過程の表現だったのではないか」(150)
わたしたちがしなければいけないのは、すごく単純化して言えば、難しい・理解できないと思ったらそのことを素直に表明すべきと言うことだ。無批判のままに受容する思考停止こそが最大の害悪だ、と。もちろん、自分自身で理解しようとする努力を前提したうえでの話だけれど。
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Tomokazu Kitajima