彼をして敢えて古き教団を否定せしめたものは、彼の信仰であった。しかしひとたび伝統を否定したときは、その信仰はおそらくは必ず、体験を強調する信仰至上主義とならざるを得ないのではないのか。体験主義はその禿落として、必ず個人主義を結果する。個人主義は教団の問題に対しては無責任ということと同義語ではないだろうか。事実、歴史はこのような事例に満ちている。このような致命的な弱点を、この道は本質的に内に孕んでいるのである。
このように見てくるならば、古き教団を単に批判し、否定することによっては、教団の問題は解決されるものではないように思われる。ここに於いて我々は、再び教団の伝統を改めて見直さなければならない。なるほど過去からの遺産は重い。その前に立って我々が殆ど呆然としなければならぬほどのものである。しかしながら、教団を一つの問題と感じながらも、なお我々多そのような形で主体的に教団に関わらざるを得ないという事実は、何かそこに深い意味が潜んでいるのではなかろうか。古き教団に対して新しい教団を造ると行っても、古き教団が、即ち自己の歴史が、現在の自分の鏡とならないような態度に、果たしてどれだけのことが期待できるであろうか。翻って思えば、今日の教団の情況は、決して突然獲られたものではない。
(略)
教団は決して凋落を欲して凋落したのではないはずである、しかるにそこに、内には教団喪失の悲しみ、外には教団が社会から批判されるという現実を生んだのである。即ち苦闘しつつも教団は、人間の流転とその運命を倶にしたのである。歴史の決判とは、こういうようなことをいうのであろう。
暁烏敏の信仰の挫折
大正2年7月号の「精神界」巻頭言として、「権威なき生活内容」との見出しの下に、「私の近来の気分は、人に対し、世に向いて道を伝えるとか、法を述べるとかいう風には慣れないのである。そうしてそんな伝道的な気分が起こると、側面から見ておるところの自己が、汝はどうか、汝は充実しておるのかとあざ笑っていおるようである。自分の学問も、知識も、道徳も、信仰も、いかにも空虚なように面輪ルルのである」とその心境を綴っている。
・多田鼎
大正三年の田舎生活の後に上京、浩々洞を訪れた彼は、藤原鉄条、清水俊栄等の若い洞人達との論戦において、その恩寵主義的信仰を完全に論破されてしまった。その時、彼から実在的な如来や、その大悲心なるものは消え去ってしまったのである。
暁烏敏・多田鼎の挫折によって浩々洞の恩寵主義は破綻したのである。
三
一方清沢満之亡き後、新たに入洞、あるいは洞に関係した青年達、藤原鉄乗、清水俊栄、隈部慈明、あるいは山辺習学、赤沼智善というような人達は、暁烏・多田量先輩が自己破綻として体験した挫折を、先輩との対立反抗の形において体験した。
それはまず赤沼智善の「俺は今まであまりに従いすぎた。古いものをあまり尊みすぎた。息を引き取った人の導きを手折りすぎた。卑屈にも臆病にも、俺というものをいと小さいものにして日陰のものにして、権威に屈従しすぎー然し俺はもうこういう生活に従うことは出来なくなった。俺は俺の心の奥底から流れ出る生命を観ぜずにはいられない」(田舎より)という意識として、いつの間にかドグマ化した恩寵主義を超えて、自らの生命に身を沈めようとする動きとしてあらわれた。
(略)
その覚醒が、如来の実在を恩寵し、転じて一切の慈祥の飢えに如来の恩寵をうたって、その光明に酔っていた恩寵主義を否定し、それを徳先輩への反抗という形を取ったのである。
[暁烏・多田の熱心な活躍によって、清沢満之の名は全国的に広まり、「清澤宗」なるものが出来るほどの勢いとなるに従い、その「信仰の理論か・一般化」の傾向はいよいよ強くなって行った。そこに、清沢満之が身を以て否定した教権が、今度は清沢満之の名を以て新たに形作られる結果となったのである。
教権は、良い他人源の救いとは成らず、逆にこれを圧迫し、型にはめ込もうとする。その傾向が強まれば強まるほど、そこからはみ出し、そこを突き破ろうとする人間の自然な願いも高まってくる。そこに若い洞人達との対立、分裂が生まれる必然性があったのである。
しかし実はそのような青年達の新しい息吹を末までもなく、暁烏・多田は相前後して、その信仰の挫折を体験せねばならなかったのである。]
[暁烏敏「・・・我は国家なり、宗門有り、凡てのものは我によりて誠に満たさるべく、真に進めらるべし」と。
この高らかな宣言を支えているものは、洞人達の清沢満之への絶対的な信憑、彼によって真に獲信しえたという確信であった。
従って彼らが、「先生の名を、先生の徳を、先生の教えを世に伝える事」(暁烏・更生の前後)を任務として自らに課したのは当然であった。即ち彼らの恩寵主義は「清澤先生の『我信念』の内容的註釈」(罪悪も如来の恩寵也)であったのである。そしてそのことは、信奉すべき師に遇いがたくして遇いえた者の、果たすべき責務ででもあっただろう。」
だが実は、そこに一つの危険があった。即ち、あの求道者の、一切の問題を荷負してひたすらに方を求めたその方向が、その時逆に、伝うべき師、弘むべき法を背景にして一切の慈祥に対向する方向を取る。そこに解釈が入り、概念化が行われ、時流との調合がなされる危険が出てくる。従って、彼がその歴史的な使命を自覚することが強ければ強いほど、法の概念化、そして自己体験の絶対化の危険性もまた増大するのである。私は、精神主義から恩寵主義への移行に於いても、彼ら洞人の、そのような伝道者たる歴史的責務への自覚、それを支える獲信の自負、自己体験の絶対化にその一因を見る。
(略)
そして、その自己体験ー遇いがたくして遇い得た師を通して真に如来に帰入し得たとのーの絶対化が、彼の目を、真実の自己の姿に昏くさし、自己没去を必然し、勢い、その体験を高唱することによって、恩寵的陶酔に沈んでしまったのである。]
[さらに翌43年は、親鸞聖人650回忌の厳修された年であるが、そのため各地の門信徒の活発な活動に乗って、各地の清沢満之を信奉し、敬慕する人たちの動きも盛んと成り、暁烏・多田等という洞の中心的な人たちは、全く東奔西走、一日として席の温まる暇のない有様であった。まことに「清澤宗なるものが出来たそうな勢い」と云うのも誇張ではなかったのである。
清沢満之亡き後の浩々洞を背負って立った暁烏敏・多田鼎の信仰・思想を一言にして云えば、それは恩寵主義と名づけられ得るものであった。それは暁烏が「先生の御在世の間から特にその後になって、段々と感激的に弥陀を崇拝し、現在の境遇より弥陀の慈悲の存在を説明しようとした」(更生の前後)と述べているように、罪悪凡夫との自覚に於いて、そのような自分がそのまま如来大悲の広大なる恩寵の中に包まれてある、との陶酔的な信仰・歓喜となっていったものであった。多田鼎もまた、「私の論証は追々に実際的の色彩を加えてきました。明治40年前後から、私の精神界を動かしてきたのは、恩寵の思想でありました」と述懐している。
(略)
「罪悪も如来の恩寵なり」の一問によりてあきらかにされる。]
[ちなみに封建時代において死の問題は、いつも来世とか後生とかいうものに結びつけられて考えられた。この世の一切の所行に対して、来世では、えんまの行というような厳正な審判が行われ、罪を犯した者は、地獄に追いやられて何とも恐ろしい責め苦に欠けられると説教される。誰でも内に省みて、善い行いばかりしているとはいえないので、どんな小さな悪いことでもそれを気にし出すと、夜も眠られぬと言うようなことにも成りかねない。だから昔の人たちにとっては、死の恐怖は、死だけの恐怖ではなくして、さらに死後に来るべき刑罰の恐怖とも成る。もしこのような人たちのために何か無罪の保証をしてくれるもの、たとえば罪深くともお浄土に生まれることができるという破天荒な保証があったとしたら、人々はそのような保証を手に入れるために、外の何物をも惜しまないであろう。封建時代の人々にとって仏教特に浄土真宗はそういう救いを約束するものであった。宗教の強みは、人々の絶体絶命の気持ちの上に立っているところにあろう。しかし宗教を説く説教者の方が、自分の宗教が救いであることを言うために、かえって死後の恐怖をことさらに強調したがる。その結果、宗教有るが故に、かえって苦しめられるという事態も発生するわけである。]
2012-03-24 21:52:58 260pWow! ノートはまだありません
Miyata Hidenari