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嘔吐

J‐P・サルトル(著)
白井 浩司(翻訳)

人文書院

発売日: 1994-11

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「私は肩の荷が下りたとも、満足しているとも言うことはできない。反対に、私は圧倒されている。ただ私の目的は達せられた。知りたいと思ったことを知ったのである。一月以来私に起こったことを、すべて理解した。<吐き気>は私から離れなかったし、それがすぐに離れるだろうとも思わない。しかし私はもう、吐き気に襲われまい。吐き気とは、もはや病気でも、一時的な咳き込みでもなく、この私自身なのだ。
さて、いましがた、私は公園にいたのである。マロニエの根は、ちょうど私の腰掛けていたベンチの真下の大地に、深くつき刺さっていた。それが根であることを、もう思いだせなかった。言葉は消え失せ、言葉とともに事物の意味もその使用法も、また事物の表面に人間が記した弱い符号もみな消え去った。いくらか背を丸め、頭を低く垂れ、たったひとりで私は、その黒い節くれだった、生地そのままの塊とじっと向かいあっていた。その塊は私に恐怖を与えた。それから、私はあの天啓を得たのである。」

2012-04-03 06:26:14 207p

「私の考え、それは<私>である。だから私にはやめることができない。私が実存するのは、私が考えるからだ・・・そして、私は考えずにはいられない。いまこの瞬間でさえ―まったくいやになるのだが―もし私が実存するとすれば、それは、実存することにひどく嫌気が差している<から>だ。私が熱望しているあの無から、私自身をひきだすのは私である、この<私>である。実存することへの憎悪にしろ嫌悪にしろ、いずれも<私を実存させ>、実存の中に私を追いやる方法である。思考はめまいのように、私のうしろで生れる、思考が頭のうしろで生れるのが感じられる・・・もしも負ければ、それは前方に、私の眼の間にやってくるだろう―だが、私はいつも負けてしまう。思考はみるみる肥りだす。そして、いまや大きな形になった思考がすっかり私の内部を満たし、私の実存を更新する。
唾液は甘ったるく、私のからだは生温かい。自分が味も素っ気もないものであるのを感じる。ナイフは机の上にある。刃を開く。そうしてはいけない理由があるか。ともかくそれは、物事を少し変えるかもしれない。私は左手をメモ用ノートの上に載せる、そして掌にナイフをぐさりとつき刺す。あまり神経質に振舞ったので、刃が滑り、傷は浅い。血がでる。そしてそれから。なにか変わったことがあるか。いずれにしても私は、白紙の上に先刻私の記した文字の行を横切っている、私であることをついにやめた小さな血潮を満足気に眺める。白紙の上の四行の字と、血痕と。それはよき思い出となろう。その下に私はつぎのように書くべきだろう。「この日、ド・ロルボン侯爵に関する本を書くことを中止した」と。」

2012-04-02 12:58:43 163p

「ド・ロルボン氏は私の協力者だった。彼は存在するために私が必要だった。私は存在を感じないために彼が必要だった。私は彼に原材料を、どうしていいかわからなかったので、転売すべきだった原材料を、すなわち実存、<私の>実存を供給していた。ところで彼の役割は、代理をすることだった。彼は私の正面にいて、私の生を奪っていた。それは、彼の生を私が<演じる>ためだった。私は、自分が実存していることにもはや気づかなかった。私はもう自分の裡には実存せず、彼の裡に実存していた。私が食べるのも、呼吸するのも、みな彼のためだった。私の動作のひとつひとつは私の外部で、ちょうど私の正面にいる彼の裡において、はじめてその意味を持った。紙の上に文字を書く私の手も、私が書いたその文章でさえももう私の眼に入らなかった―しかしその背後に、紙の向う側に、私は侯爵を見ていた。彼は私に、書くという動作を要求していた。その動作が彼の実存をひきのばし、固めていた。私は彼を生存させる方法でしかなかった。彼こそ私の存在理由で、私から私自身を解放してくれたのである。ところでいま、私はなにをしようか。
特に身じろぎしないこと、<身じろぎしないこと>・・・・・・。ああ。
肩のこの動き、それを怺えることができなかった・・・・・・。
待機していた<例の物>が急を聞いて駆けつけて、私に襲いかかり、私の中にそっと入り込み、私はそれでいっぱいになる。―そんなことはなんでもない。<例の物>とは、私なんだ。自由になり縛めをとかれた実存が私に向かって逆流する。私は実存する。
私は実存する。それは柔かい。非常に柔かく、非常に緩慢である。そして、軽い。そうだ。それはひとりでに空中に浮いているようだ。それは動く。それは、あらゆるところに軽く触れると、つぎには溶けて消えてしまう。まったく柔かい、まったく柔かい。私の口の中に泡立つ水がある。それを呑み込む。それは知らぬまに喉に移行し、私を愛撫する―そして、また水が口の中に生れる。口の中には、私の舌に軽く触れる白っぽい―慎み深い―小さな水溜りが永久に存在する。この水溜り、それも私だ。そして舌。そして喉、それも私だ。」

2012-04-02 02:08:38 160p

「何の変化も起きなかった。しかしながら、すべてが別の仕方で存在するのである。私はそれをうまく描写することができない。それはあたかも<吐き気>のように描写できないものであるが、しかし本質において<吐き気>とはまさに正反対のものである。要するにひとつの冒険が私に起きる。そのとき私は自問して、つぎのことを知るのだ。つまり<私とはまぎれもないこの自分であり、そして、ここに存在しているという事態が自分に起こっている>と。暗闇をひき裂いてゆくのはこの<私>だ。私は小説の主人公のように幸福である。」

2012-04-01 03:52:05 89p

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