さんた、ま、りぁ、りぁ、りぁ―<幻視>の構造
わが連想かぎりなく残酷となりゆくは降り積めし雪の翳くろきゆゑ 葛原妙子
塚本邦雄によって<幻視の女王>と呼ばれた葛原妙子であるが、短歌において幻を視るとはどういうことなのだろうか。また、その不思議な力の源泉はどこにあるのか。
天体は新墓のごと輝くを星としいへり月とし言えり
白鳥は水上の唖者わがかつて白鳥の声を聴きしことなし
草上昼餐はるなりにき若者ら不時着陸の機体のごとく
老いたる爬類のごとき大学に学生あらざりし雪降りてゐる
没りつ陽の黒きになればロダン作る 考へる人、ましらのごとし
風媒のたまものとしてマリアは蛹のごとき嬰児を抱きぬ
葛原妙子の表現の上には、一貫してひとつの強い偏向を読みとることができる。例えば、上の引用歌にはいずれも作品の核として比喩や見立てが用いられているのだが、それぞれの作中で何が何に喩えられているのかをみれば、その偏りは明らかである。
【対象物】 【比喩・見立て】
天体(星、月) 新墓
白鳥 水上の唖者
若者ら 不時着陸の機体
大学 老いたる爬虫
考へる ましら
嬰児(イエス・キリスト) 蛹
すべての組み合わせに共通しているのは、この世でも最も美しいもの、重要なもの、可能性にみちたものが、強引とも思える連想の飛躍によって、ネガティブな存在と結びつけられているということである。この見立ては確かに強引でありながら、同時に怖いほどの説得力を持っている。作者は対象物のなかに常人にはとうてい感知できないような負のニュアンスを見い出して、自らの表現のなかに拡大定着させる。この<幻視>的な表現の説得性は、何よりも対象の本質をつかむ力の強さに因っているのだが、作者の場合、それが負の方向性と分かち難く結びついているのだ。ここでは、<幻視>とは、美しく重要な可能性にみちたものに強烈な視線を当てることで、存在そのものを反転させる力のようにすら感じられる。
ブッティクのビラ配りにも飽きている午後 故郷から千キロの夏 早坂類
工事中のランプをぬすんできてしまう祐一が猛暑のトビラをたたく
長生きができたらいいな ひまわりの黄は漆黒にあんがい似てるね
夕立にもっともっと濡れたげな君はソーダをすっすと飲み干し
プラトンはいかなる奴隷使いしやいかなる声で彼を呼びしや 大滝和子
収穫祭 稜線ちかく降りたちてbetweenやupやawayを摘めり
ロザリオのごと瞬間のつらなれる一日終えつつ脈はやきかも
眠らむとしてひとすじの涙落つ きょうという無名交響曲
え、と言う癖は今でも直らない どんな雪でもあなたはこわい 東直子
白秋やひんやり風の吹く朝にみいみい鳴いて止まるエンジン
羽音かと思えば君が素裸で歯を磨きおり 夏の夜明けに
柿の木にちっちゃな柿がすずなりでお父さんわたしは不機嫌でした
どんな雪でもあなたはこわい―宙の知恵の輪
枕木の数ほどの日を生きてきて愛する人に出会はぬ不思議 大村陽子
一首の魅力の核は、「愛」の「不思議」にあるのだが、例えば、作者がこの歌を作った直後に「愛する人に出会っ」たとしても、この不思議は解けたことになるだろうか。
出奔せし夫が住みゐてふ四国目とづれば不思議に美しき島よ 中城ふみ子
作者の頭上に浮かんだ知恵の輪は巨きく、その煌めきに統べられた彼女の意識の中で、「四国」は「美しき島」へと鮮やかな変容を見せている。
宙の知恵の輪は、現実の物語の顛末や愛の成就をすら超えて、一首のなかに在り続ける。その美しさはひとえに、知恵の輪の強度、つまりそれが永遠に解けないことに因っている。誰にも触れたことのできない知恵の輪は、すべての恋人たちが死に絶えた後の空に煌めき続けるだろう。キーワードは宙の知恵の輪、すなわち愛の希求の絶対性である。
愛の希求の絶対性は、すべての表現を通じて最も大切な要素だと信じるが、特に若い女性作家の歌をみるときに、私はまずのこ宙の知恵の輪のありかとその強度を思わずにはいられない。
風惑星ふるえる夜のわたくしはもの思いする 近づくな君 小守有里
ぼたんゆきのような台詞をくり返すひと 月夜でも負ってはゆかない 同
レコオドにはりおろすごと細心に告げたき想ひ抱きて歩む 関口ひろみ
きみが笑はざれば笑へぬ今日のわれ雨脚はじく舗道見てゐる 同
君に逢う 風の坂道降るときクレッツェンドのわたしのカノン 飯沼鮎子
いちまいの扉のごとき背中あり叩けば君のさみしさ聞こゆ 同
私はこれらの歌を信じることができない。歌の内容が信じられないわけではなく、私が求めたいと思う愛の希求の絶対性を、そこから充分に感じ取ることができないのである。これらの歌における愛の知恵の輪は、現実の恋人の優しい言葉や仕草によってたやすく解けてしまうのではないだろうか。そしてあとには幸福な恋人同士が残るだけだと思う。
ロッカーを蹴るなら人の顔を蹴れ―灼熱の心
答案また問題文は繰り返し読めて間違ひなきを確かめよ 奥村晃作
英語まづ解釈力を培ふべし、一冊の参考書繰り返し解け 同
一、二冊の参考書をば繰り返し読みかつ解けよ、基礎を固めよ 同
まともに、ひたぶるに、それ以上でも、以下でもなく、真実、心の底からから「本気」でこう思っているのだ。これは熱心な教師というより、その全体性への俯瞰指向の欠如という意味で、むしろ異様な教師といわざるを得ない。異様な教師の異様な迫力といったものが、これらの<作品>の背後から立ち上がってきてわれわれはたじたじとなる。奥村晃作以外の教師歌人にはおよそみられない迫力は、別にというとこのバランス感覚の欠如に基づいている。
(小池光「局所の人」)
「ロッカーを蹴るなら人の顔蹴れ」と生徒にさとす「ロッカーは蹴るな」 奥村晃作
「もの言えぬロッカー蹴るな鬱屈を晴らしたければ人を蹴りなさい」 同
「ロッカー蹴る現場見付けたらその奴は停学に処す」と言ふことを識れ 同
「ロッカーを朝昼さすり磨いたらニコニコ笑ふよロッカーちやんも」 同
不思議なり千の音符ただ一つ弾きちがへてもへんな音がす 奥村晃作
次々に走り過ぎ行く自動車の運転する人みな前を向く 同
「東京の積雪二十センチ」といふけれど東京のどこが二十センチか 同
運転手一人の判断でバスはいま追越車線に入りて行くなり 同
端的に言ふなら犬はぬかるみの水を飲みわれはその水を飲まぬ 同
玉串を神に捧げて柏木を打ちし刹那に婚は成りしか 同
舟虫の無数の足が一斉にうごきて舟虫のからだを運ぶ 同
イヌネコと蔑して言ふがイヌネコは一切無所有の生を完うす 同
太束の滝水落つる傍へにてビーズの如く岩伝ふ水 同
これらの作品には、奥村晃作の怖さがよくあらわれている。目の前の事象に対する限度を超えた意識の集中が、先入観や常識といった日常的な認識のフレームをばらばらにして、いわば聖なる見境のなさといったものを生み出している。
真面目過ぎる「過ぎる」部分が駄目ならむ真面目自体はそれで佳しとして 奥村晃作
梅雨寒や蛸が食ふたし銀ねずの濡るる路上に蛸はをらぬか 辰巳泰子
二日酔いの無念極まるぼくのためもっと電車よ まじめに走れ 福島泰樹
ピアノの上でしようじゃないか―マンモスの捉え方
ここにいる疑いようのないことでろろおんろおん陽ざしあれここ 加藤治郎
<今、ここ>に存在するという宿命を全身で受け入れる実存の肯定と、それに伴う一種の敬虔な判断停止は、短歌という詩型を統べる感覚として偏在するように思われる。
まりあまりあ明日あめがふるどんなあめでも 窓に額をあてていようよ 加藤治郎
すべての今にイエスを告げて水仙の葉のようなその髪のあかるさ 加藤治郎
荒川の水門に来て見ゆるもの聞こゆるものを吾は楽しむ 斎藤茂吉
うがひして薬をのんでかつ祈るホメオスターシス、ホメオスターシス 高野公彦
いいえいいえわたしはここに残ります割れたコーヒーカップを眺め 東直子
本章では、このような実存肯定に根ざした身体的な実存感覚がオノマトペとは別の表現に結びつくケースとして、作品内部のデータの意識的な欠落を利用して逆に詩的実感を強化するという手法を中心にみてゆきたい。
手をひいて登る階段なかばにて抱き上げたり夏雲の下 加藤治郎
この歌では「何を」抱き上げたのかということが明示されていない。初句の「手をひいて」という言葉から、読者がこの対象をおそらく子供であろうと自ら想像することによって一首の情景は初めて完結する。
単三の電池をつめて聴きゐたり海ほろぶとき陸も亡びむ 岡井隆
歯にあたるペコちゃんキャンディーからころとピアノの上でしようじゃないか 加藤治郎
そうですかきれいでしたかわたくしは小鳥を売ってくらしています 東直子
以上のような歌の構造を直接的に支えているのは、第一に、現実レベルでの作者と読者の間の体験の共有性である。つまり<私>の作中行動を読者が自らの体験に照らしてある程度想像できるということが前提となっているというわけだ。
第二に、作者の側に冒頭に述べたような身体的な実存感覚とその共有性への信頼があることがより本誌的な意味を持っている。
駅前のゆうぐれまつり ふくらはぎに小さいひとのぬくもりがある 東直子
こんな日は連結部分に足を乗せくらくらするまで楽しんでみる 同
ゆびさきに桃の花などぬりこんである人物に会いにゆきます 同
よろこびの車こまかく揺れている開襟シャツとしずかな鎖骨 同
吊輪びちびちと鳴りだす―身体という井戸―
一人称の詩型である短歌にとって、<私>の物理的な側面である身体との関わりは極めて大きなものがある。
飲食ののちに立つなる空壜のしばしば遠き泪の目の如し 葛原妙子
ひどくあいしたあとはコーラの缶のあかビールの缶のぎんならぶだけ 加藤治郎
葛原作品の張りつめた印象に対して、加藤作品の場合は倦怠的な充足感がさらに強く前面に出ているが、その底にはやはり同様の生の悲しみが感じられる。飲食と性愛という生の根元的な営みに関わる身体状態のシフトによって、新たな感覚次元が開示されているという点で、両者はよく似た構造を持っている。
次に短歌における身体感覚の働きをオノマトペの面から見てみよう。
ここにいる疑いようのないことでろろおんろおん陽ざしあれここ 加藤治郎
詩的なポイントは、「ろろおんろおん」という奇妙なオノマトペにある。これは、一種の擬態語として読むことも可能であるが、もう一つの可能性として、私はこれを「陽ざし」を現に浴びて存在している<私>自身のあり方を表現したものとして捉えたい。つまり「ろろおんろおん」とは、「疑いよう」なく「ここにいる」自分の心臓の動きや脈拍や体温といった感覚の総体、すなわち<私>の実存そのものをあらわした表現として読めると思うのだ。
ここで注目したいのは、実質的には単なる音の連なりであるオノマトペの妥当性を、読者はどのように判断しているのかという問題である。我々は、五感と直接的に結びついていない「ろろおんろおん」というオノマトペを「自分なりの感覚」で共感や反発を抱くことができる。この「自分なりの感覚」は、五感の上位にあってそれらを相関させるような、一つの身体的な実存感覚だと想定できるように思う。このとき、作者は自らの身体的な実存感覚によって「ろろおんろおん」という表現を選び取り、読者はその表現が<今、ここ>に存在する<私>の実感を言い得ているか、あるいは的外れでぴんとこないものかという判断を各自の実存感覚に照らして行っているということになる。
シリアルにミルクをかけるぱりぱりと鳴りだすあさはなにもおもわず 加藤治郎
限りなくつらなる吊輪びちびちと鳴りだすだれもだれもぎんいろ 同
生理中のFUCKは熱し―ホームランとファールチップ
いれてあげてもよっくてよぶぶぶぶっぶぶぶ鳥肉を吐き出すおんな 加藤治郎
にぎやかに釜飯の鶏ゑゑゑゑゑゑゑゑゑひどい戦争だった 同
二つの作品には共通点がある。
・素材として鳥肉を扱っている点
・「ぶぶぶぶっぶぶぶ」と「ゑゑゑゑゑゑゑゑゑ」というオノマトペの使用
・「おんな」や「釜飯の鶏」という他者に乗り移った意識
・上の主体意識に関連して「いれてあげてもよくてよ」と「ひどい戦争だった」という話言葉の使用
このように比較して考えると二つの作品は双子のように似ているといってもいい。だが歌としてみるとこれらはそれぞれ、明らかな失敗作と成功作に分かれている。同時期に同じ作者がよく似た題材で作った作品がこのように結果を分けるのは興味深い。ここから私はある現象を連想する。真後ろに飛ぶファールチップとホームランである。同一作者におけるホームランとファールチップの同時発生現象は、前章で述べた「心を一点に張る」ことに関連しているように思う。これは野球でいうところのホームランバッターの特性にあたるのではないか。読者はファールチップ的作品にみられる極端な言葉の斡旋や突き抜けたイメージから、当たれば飛距離が伸びるスイングの大きさを感じ取ることができる。また、野球と違って短歌の場合には、ホームランとファールチップの区別がつかないケースも珍しくない。
元旦に母が犯されたる証し義姉は十月十日の生れ 浜田康敬
闇を脱ぐ闇姫を見にゆくイタチおいで私はこんなに裸 高柳蕗子
男らは皆戦争に死ねよとて陣痛のきはみわれは憎みゐき 辰巳泰子
ゆふがほに弓ひきしぼるなかぞらの神のみにくき面を愛す 水原紫苑
生理中のFUCKは熱し
血の海をふたりつくづく眺めてしまう 林あまり
サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい 穂村弘
原子力発電所は首都の中心に置け―心を一点に張る―
やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君 与謝野晶子
短歌という詩型においては、感覚の鋭さとか言葉の斡旋の巧みさといったこと以前に、心を一点に張る能力がしばしば決定的な力を持つ。だが、このような勇気は出そうとして出るものではなく、それは実はほとんど狂気に近いような特殊な力なのである。引用歌のように歌のかたちになったものをみれば、そこには万人が納得する普遍性があるにもかかわらず、実際にこのような表現ができるのは選ばれた一人に過ぎない、という事実はそのことを証している。
心を一点に張る力こそ、暗闇のなかから未知の言葉をつかみだして自分だけの世界を切り開くための必須条件である。
さみだれにみだるるみどり原子力発電所は首都の中心に置け 塚本邦雄
日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係も 同
五月祭の汗の青年 病むわれは火のごとき孤独もちてへだたる 同
馬を洗はば馬のたましひ冴ゆるまで人恋はば人あやむるこころ 同
ずぶ濡れのラガー奔るを見おろせり未来にむけるものみな走る 同
原子力発電所一基建設予定地として東京都千代田区永田町 辰巳泰子
「はい」と答へて醒めるさびしさぞ大声で呼ばるる夢に大声をもて 同
いとしさもざんぶと捨てる冬の川数珠つながりの怒りも捨てる 同
橋桁にもんどりうてるこの水はくるしむみづと決めて見てゐる 同
好きだった世界をみんな連れてゆくあなたのカヌー燃えるみずうみ 東直子
優れた歌を支えるものは、無限大のイメージの広がりと内的規範の厳密性の両立であるように思う。ここで内的規範として作用しているものこそ、心を一点に張る能力にほかならない。さみしさの一点に心を張る力が、言葉に先立つことによって、暴れ馬のようなめくるめくイメージの鼻面をひとつの方向に向けさせることに成功したのである。
廃村を告げる活字に桃の皮ふれればにじみゆくばかり 来て 東直子
液体糊がすきとおり立つ―入力と出力―
表現行為としての歌づくりには、入力と出力の二つの面がある。入力とは外界を感受することであり、出力とは感受したものを実際に言葉で表現することである。詠うべき対象をどのように捉えるかが入力面でのポイントであり、捉えた対象をどのように詠うかが出力面のポイントである。
短詩型におけるこのような二面性の意識は、短歌と俳句に共通する写生という理念の存在からも読みとることができる。写生とは、まず物をよく見て言葉でそれを写すことと通常は理解されるが、このうち「見る」ことが入力に、「言葉で写す」ことが出力に相当する。斎藤茂吉の写生理念を示すキーワードは<実相観入>であるが、『大辞泉』の「表面的な写生にとどまらず、対象に自己を投入して、自己と対象が一つになった世界を具象的に写そうとすること」という記述からもうかがえるように、「見る」には五感のすべてを使って対象を捉えるという意味が込められている。
ガレージへトラックひとつ入らむとす少しためらひ入りて行きたり 斎藤茂吉
街上に轢かれし猫はぼろ切れか何かのごとく平たくなりぬ 同
・入力先行型
春あさき郵便局に来てみれば液体糊がすきとおり立つ 大滝和子
カーテンのすきまから射す光線を手紙かとおもって拾おうとした 早坂類
・出力先行型
スピリタス烈しき酒は澄みとほり壜に不在を装ひて立つ 小池純代
栗の載るケーキのように近ごろのおまえあやうし明るけれども 吉川宏志
一般に入力型の歌は、短歌を読み慣れていない人にもその魅力が理解しやすいのに対して、出力型の作品の魅力はある程度歌を読み込んでいないと伝わりにくい面がある。個人的な印象としては現在はシンプルな入力型の作品が力を感じさせる時代であるように思う。見方を変えれば、これはジャンルとしての短歌固有の力の衰弱と言えるかもしれない。
鋭きものはいのちあぶなし―生命のなかの反<生命>性―
あさあけに川ありてながすうすざくらすなはち微量の銀をながす川 葛原妙子
うはしろみさくら咲きをり曇る日のさくらに銀の在処おもほゆ 同
水銀を含みにけりなしろとりのなかなる鷺もつとも異し 同
蠅捉へられたる短き声のしてわが髪の中銀の閃く 同
殺虫剤すこし掛かりし祖母の顔仄かなる銀となりゐつ 同
これらの歌においてはいずれも「銀」がキーワードになっている。作者の鋭い感覚は花や鳥や蝉や人といった生物の姿や声にオーバーラップするように、「銀」や「水銀」の幻を繰り返し捉えている。
水浴ののちなる鳥がととのふる羽根のあはひにふと銀貨見ゆ 水原紫苑
白梅に刃物の香ありけだものの猫やはらかくその下を過ぐ 小島ゆかり
これらの歌に共通しているのは、生物の裡に生命から最も遠いはずの何かをみる感覚といってよいだろう。さらに次のような作品では、「ごとく」「ように」といった比喩表現を経由することで、生物と「生命から最も遠いはずの何か」の間にいっそう大胆な結びつきが与えられている。
猟銃のごと美しき弟あらば風吹ける夜のいづこに歩む 葛原妙子
草上昼餐はるかなりにき若者ら不時着陸の機体のごとく 同
宥されてわれは生みたし 硝子・貝・時計のように響きあふ子ら 水原紫苑
一瞬のわれを見いづる父なく母なく子なく銀の如きを 葛原妙子
ついに「われ」自身のなかに「銀」が感受されている。血縁者に取り囲まれた現実の自分を離れて、ある「一瞬」に把握された「われ」は、「父」も「母」も「子」も持たない「銀の如き」存在であったというのである。ここに至って「銀」とは、生物の根底にあるはずの血のつながりを超えた反<生命>性の象徴であったことがはっきりと示されている。生命とは、それ自身の内部に本質的な矛盾要素、すなわち反<生命>性を抱え込んだ危険なものではないか。反<生命>とは、すなわち死の別名である。
卓上の逆光線にころがして卵と遊ぶわれにふるるな 築地正子
卵のひみつ、といへる書抱きねむりたる十二の少女にふるるなかれよ 葛原妙子
あかあかと硝子戸照らす夕べなり鋭きものはいのちあぶなし 前川左美雄
美男美女美女美女美男たち―非常事態の詩―
「歌のなかでも特に大きなものとされる相聞歌、挽歌、青春歌などを支えているのは、恋愛、死、青春といったモチーフであり、これらはいずれも人間にとって非常事態だといっていい。心理的に特殊な状況下で生み出された言葉には、作者自身にとっても思いがけない何かが自然に含まれていることが多く、それが一首の歌に輝きを与えるのである。恋をすれば歌ができるというのは馬鹿馬鹿しいようだが本当だと思う」
・青春歌
青空のほか撃ちしことなき拳銃を地図に向ければまた海の青 斎藤昇
ギリシャ悲劇の野外劇場雨となり美男美女美女美女美男たち 長岡裕一郎
ふかづめの手をポケットにづんといれ みづのしたたるやうなゆふぐれ 村木道彦
脱糞ののち出でてくる戸外にはすさまじきかな夕あかね充ち 同
おお! そらの晴れとねぐせのその髪のうしろあたまのおとこともだち 同
声あげてひとり語るは青空の底につながる眩しき遊戯 春日井建
めをほそめみるものなべてあやうきか あやうし緋色の一脚の椅子 村木道彦
・療養短歌
高窓をかがやきシリウスを二分ほど見き枕はづして 相良宏
日の光ゆたかになりて霜解けの土むらさきに盛りあがりたり 伊藤保
わが庭の草にかかりて吹かれゐる鉋屑ながく生なましかり 同
つばくらめ一羽のこりて昼深し畳におつる糞のけはひも 明石海人
わが指の頂きにきて金花虫のけはひはやがて羽根ひらきたり 同
白壁を隔てて病めるをとめらの或る時は脈をとりあふ声す 相良宏
常臥せる窓の檜の木に此の夜頃天道虫の匂ひ満ちをり 同
星かげは激しき楽の如くにて苦しむ友に看護婦を待つ 同
「人間が生きていることは本来それだけで大いなる非常事態なのである。だが、私たちの意識には自分自身に麻酔をかけてその事実を直視しないようにプログラミングがなされているようだ。おそらくは現実的な次元での生を大過なく生き延びるために。だが、我々は『大過なく生き延びるため』にこの世に生まれて来たわけではない。青春や恋や死などの突風を受けたとき、人の心は一瞬だけ目を覚まして、生の本来の意味を思い出す。詩の誕生の瞬間である」
サラダより温野菜―<本当のこと>の力―
その川の赤や青その川の既視感そのことを考えていて死にそこなった 早坂類
その川の赤や青/その川の既視感/そのことを/考えていて/死にそこなった
歌としていいかと訊かれればためらわざるを得ないこの作品の、しかし見た瞬間にわかってしまう、コレハホントウノコトダという強烈な感じはどこから来るものなのか。
敢えてその理由づけをするならば、大胆な破調や「その」の連なりが一回限りのフォルムとして、同じくただ一度の「死にそこなった」という経験のリアリティを支えているということなのだろう。
サラダより温野菜がよいということがよみがえりよみがえりする道だろう 早坂類
サラダより/温野菜がよいと/いうことが/よみがえりよみがえり/する道だろう
先の一首同様、ここでも下句の「よみがえりよみがえりする道だろう」を中心とする独特の言い回しの、その一回性が全体のリアリティを支えているのだと思う。四句目が特に大きな字余りとなっているが、この部分の「よみがえりよみがえり」という膨らみによって「サラダより温野菜がよい」というささやかな言葉が、ひどく大切な呪文のように読み手の胸のなかに流れ込んで来るのである。
<本当のこと>の力は何に由来するのだろうか。
この世に生きていることがただ一回限りの出来事だとという緊張感が、早坂作品において強い孤独感と結びついて表出されることが多い。技巧的には、破調を含んだフォルムの一回性が体験の一回性を支える構造をしている。
かたむいているような気がする国道をしんしんとひとりひとりで歩く 早坂類
うつくしい午前五時半ころころと小石のように散歩します 同
さんざんに美しい幻の家であるような紺のコートを羽織る 同
生の一回性、すなわちそのかけがえのなさこそは、ひとりひとりの体験や価値観の違いを超えて存在する唯一のものである。一首の歌のなかに読者が<本当のこと>の輝きをみるとき、その真の光源とは読み手自身の生のかけがえのなさにほかならない。
ロミオ洋品店春服の青年像下半身無し✽✽✽さらば青春 塚本邦雄
青春の一回性というモチーフの直接性とは関わりなく、いわゆる事実性から最も遠い地点で初めて発せられたこの叫びに、私は<本当のこと>の輝きをみることができる。
氷河に遺体がねむる ―<遙かな他者>と<われ>―
人皆の箱根伊香保と遊ぶ日を庵にこもりて蠅殺すわれは 正岡子規
吉原の太鼓聞えて更くる夜にひとり俳句を分類するわれは 同
富士を蹈みて帰りし人の物語聞きつつ細き足さするわれは 同
八首の連作、すべてが「われは」という共通の結句をもつ、正岡子規「われは」を引用して、穂村弘は、健やかな他者と病人の「われ」との対比から、私の生の一回性と他者との交換不可能性を指摘する。
われらウェイトトレーニングする日曜日はるかなる氷河に遺体はねむる 渡辺松男
次に、子規の連作から百年後の歌を引用する。ここでも、子規との感覚を反転させた形で、自己の生の一回生と交換不可能性、<われ>のかけがえのなさを指摘する。
我を生みし母の骨片冷えをらむとほき一墓下一壺中にて 高野公彦
翼の根に赤チン塗りてやりしのみ雲の寄り合う辺りに消えつ 柴善之助
我を遠く離れし海でアザラシの睫毛は白く凍りつきたり 吉川宏志
これらの短歌は、それぞれ、<われ>から大きく隔たった、「母」「傷ついた鳥」「アザラシ」という<遙かな他者>とを対比的に描くことで、<われ>のかけのなさを示している。
「作中の<われ>の状況にかかわらず、生のかけがえのなさは等価であり、それこそが同じくただ一度きりの生を生きる読者の共感の根幹でもある。言い換えるならば、子規以降現在に至るまでの短歌の基盤には、作中の<われ>と読者としての我々が共有可能な、生のかけがえのなさの実感が生き続けているのである」
前衛短歌運動の展開とともに、虚構の<われ>の構築が試みられた。
亡き母の真赤な櫛で梳きやれば山鳩の羽毛抜けやまぬなり 寺山修司
兄の自爆を怒りし誰もいぬことのふと異様にわれに鮮らしき 平井弘
寺山修司の「母」はこのとき健在であり、平井弘には兄ははじめからいなかった。また近年では、一人称やフィクションに関する感覚の自然なシフトから、創作的な行為とはやや異なるニュアンスで短歌の<われ>はさらに自由なものとなっている。
あなたしかしらないやうな樹ですからこえだにふれるとき気をつけて 喜多昭夫
もうじっとしていられないミミズクはあれはさようならを言いにゆくのよ 正岡豊
嘘つきはどらえもんのはじまり-<私>の補強-
「自意識の強さは自我の強さに反比例すると思う。つまり我々が健康な体を意識しないのと同様に、健やかで強い自我は自らを過剰に意識する必要がない。過剰な自意識とは、自我の脆弱さが必然的に生み出すものではないだろうか」
五七五七七という定型性は神経症的な自意識を和らげ、伸びやかな自己像の展開を可能にする。なぜなら、言葉の自由を様々な角度から拘束することで、逆に定型内部での表現主体の自由な振る舞いを許容するからである。言葉の自由を様々な角度から縛る要素は、短歌の一人称性、定量性、定型性、歴史性などが考えられる。以下、それぞれに検討してみよう。
◎一人称性
短歌における<私性>というのは、作品の背後に一人の人-そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです。そしてそれに尽きます。そういう一人の人物(それが即作者である場合もそうでない場合もあることは、前にも注記しましたが)を予想することなくしては、この定型詩は、表現として自立できないのです。 岡井隆「私文学としての短歌」
◎定量性
自分の中に表現したいものがある人でも真っ白な原稿用紙に小説を書くということは途方もないことに思えるだろう。しかし、三十一音前後という量的規定は、過剰な自意識の鎮静効果と型の効用による表現の明確さ、そして、安心感とをもたらす。
◎定型性
五七五七七という枠組みの定型性には、作品を生み出す過程で一首を相対化する作用がある。
◎歴史性
短歌が一千数百年の歴史をもつ伝統詩だという事実は、先の定型性とは全く別の次元で、自分が今まさに創ろうという一首を相対化することになる。過去の歴史的な短歌作品の総体が、表現の海に漕ぎ出す自分の船の、いわば岸辺としての役割を果たすことになるのである。
「以上のような諸要素によって、次なる一首を生み出そうとする言葉は、様々な角度から縛られ、相対化されることになる。同時に、それらの相互連関作用によって、定型内部での自己像を安定させ、自由な振る舞いを可能とする<私>の補強が実現する」
体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ 穂村弘
麦わら帽子のへこみ
短歌の感動:共感と驚異
共感=シンパシーの感覚。「そういうことってある」「その気持ちわかる」と読者に思わせる力。
驚異=ワンダーの感覚とは「いままでみたこともない」「なんて不思議なんだ」という驚きを読者にあたえるものである。
頬につたふ
なみだのごはず
一握の砂を示しし人を忘れず 石川啄木
ふるさとの訛なつかし
停車場の人ごみのなかに
そを聴きにゆく 同
思い出の一つのようでそのままにしておく麦わら帽子のへこみ 俵万智
シャンプーの香をほのぼのとたてながら微分積分子らは解きおり 同
「読者は石川啄木や俵万智の歌から自分自身の体験や気持ちを読み取り共感をすることでカタルシスを得ている。」
「他人に共感するのに比べて、自分の気持ちに共感することはたやすい。この容易さは自分自身の本当の心に向かって言葉を研ぎ澄ますということから限りなく遠いところにある。作者は定型に言葉を組み立てただけで満足してしまい、そのために、結果的に生み出された作品はめざしたはずの共感からも遠ざかることになる。」
砂浜に二人で埋めた飛行機の折れた翼を忘れないでね 俵万智
「この歌のポイントは『飛行機の折れた翼』にある。『翼』が『桜色のちいさな貝』だったとしたら、多くの読者の体験に合致するはずだろう。それにもかかわらず、感動の度合いでは原作の方が強い力を持っている。」
「『翼』と『桜貝』の違いはそのまま、言葉が驚異の感覚を通過しているかどうかの違いである。おかしなたとえになるが、『桜貝』の歌がコップのように上から下までズンドウの円筒形をしているとずれば、原作の方は砂時計のようにクビレを持ったかたちをしている。このクビレに当たるのが『飛行機の折れた翼』の部分である。・・・『翼』は、あくまでも共感へ向かうためのクビレとして機能しており、それ自体の純度を追求していない。つまり読者の想像力が全くついて来られないほど驚異的なものはじめからめざしていない。」
永遠にまろぶことなき佳き独楽をわれ作らむと大木を伐る 石川啄木
大海にうかべる白き水鳥の一羽は死なず幾億年も 同
白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ 若山牧水
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Hiroki Hayashi