二つの山を一つの山にしたものの数を数えた結果と、その山は二つの山によって構成されたものだということとは独立していると反論しても、無効である。この反論に対して、できる限り、明示的に言えば、私は語に関する私の過去の使用法を誤って解釈しているのである。
具体的に言えば、現実には「独立した(independent)」は、かつてはクインディペンデント(quindependent)を意味していたのであり、ここで「クインディペンデント」とは、次のことを意味している。即ち・・・・、と。
言うまでもなく私はここで、「規則を解釈する規則」に関するウィトゲンシュタインのよく知られた所見を述べている。ある規則に訴えることから、それとは別のより一層「基本的」な規則に訴えることに移ることで、懐疑論者に答えることは魅力的だ。しかし、懐疑的な問題提起は、このより一層「基本的」なレベルの規則にもまた適用される。
結局、より一層「基本的」なレベルの規則に訴えていくという過程は、どこかで止まらねばならない―『正当化はどこかで終わりになる』―そして私には、何らかの他の規則に還元されることのない規則が残される。
しかし、懐疑論者はそのような規則を解釈して、いとも易々といくらでも異なった結果を導くようにすることができる。このようなとき、私はどのようにして現在の規則の適用を正当化できるのだろうか。そのような規則の適用は、暗黒の中の正当化されない挑戦(unjustified stab in the dark)であるかのように思える。私はそのような規則を、盲目的に適用する。
<議論のためのルールその②>
懐疑論者に対しての返答には、行動主義的な限界を設けない。他者に観察可能な外的振る舞いだけでなく、心の中の内的な事実を証拠として引き出せるものとする。
・懐疑的問題の再定式化
「68 57」への答えを求められたとき、私は何の躊躇もなく自動的に「125」と答えた。しかし、もし私が以前、この計算を明示的に行っていないのならば、私が「5」と答えることも十分にありえただろう。ここには、二つの可能性のうち一方を敢えて答えるという野蛮な傾向を正当化するものはなにもない。
・懐疑論に対する「数える」からの反論
次々と与えられる新しい事例に対して、どのように足し算をしていくべきかを決定する規則を習得した。それは「数える」を基礎に置いた次のような規則である。xとyを加えたいと思っている。そこで多数のビー玉を持ってきて、そこからx個のビー玉を数えて取り出し一つの山を作る。次に、y個のビー玉を数えて取り出し、もう一つの山を作る。二つの山を一緒にして、一つの山のビー玉の個数を数える。その結果がx yである。
私は学習の初期に、規則の一連の指示を明示的に私自身に与えたのであり、この規則が私の心に書き込まれたと想像してもよい。これらの指示は、「 」でクワスを意味していたという仮説とは両立不可能である。私の現在の反応(「125」という答え)を決定し、かつ正当化するのは、まさにこの一連の指示であり、私が過去に行った有限個の特定の計算ではない。
・懐疑論者の「クワぞえる」からの再反論
確かに、もしも「数える」が、その語を過去に(「加法」の規則を与えるために)使用したとき、数える行為をあらわしているならば、そのとき、「プラス」は加法を表していたにちがいない。しかし、「プラス」の場合と同様、過去に「数える」を使用したのは有限回数である。従って、懐疑論者は、「数える」に関する私の過去の使用法についての私自身の現在の解釈に、「プラス」の場合と同様の疑いをかけることができる。彼は「数える」で、私がこれまで意味していたのは、クワぞえるという行為だったと主張できる。
もし「プラス」が「数える」により説明されるとすれば、「数える」の通常ではない解釈は、「プラス」の通常ではない解釈をもたらすであろう。
「基本的な点はこうである。通常私は、『68+57』という計算をするときは、単に暗黒の中での正当化されていない跳躍(unjustified leap in the dark)をするのではないと思っている。私は、私が前もって私自身に与えていた指示に従うのであり、その指示が、この新しい事例において、私は125と言うべきである、ということを一意的に決定するのである。しからば、その指示とは何であるか。仮定により私は、この事例においては「125」と言うべきである、ということを私自身に明示的に語ったことは決してないのである。そしてまた、私はただ単に『私が常にしてきたことと同じことをなし』さえすればよいのだ、と言うことも―もしその引用符の中で言われていることが『私がこれまで与えられた事例によって示されている規則に従って計算する』ということを意味するとすれば―不可能である。そのような規則は、加法(addition)の規則であるのみならず、クワス関数(quaddition)の規則でもありえる」
「以下において懐疑論者によって提起される挑戦は二つの形を取る。第一に、私が、クワスではなく、プラスを意味していたという何らかの事実が存在するのだろうかと問いかける。第二に、私が、いまの場合、『5』ではなく『125』と答えるべきであるということを確信する何らかの理由を持っているのだろうかと問いかける」
懐疑論者に答えるための二つの条件
①私がクワスではなくプラスを意味していたという、そのことを構成しているものは、どんな(私の心的状態についての)事実であるのかということを説明すること
②「68+57」に対して「125」という答えを与える私を如何にして正当化するかということをある意味において示さねばならない
<議論のためのルール>by荒畑靖宏先生
懐疑論者が問題にしているのは「いかにして私は68+57は125であるということを知るのか」ということではない。「いかにして私は<「68プラス57」は私がその「プラス」で過去においてプラスを意味していたのだから、125であるべきだ>ということを知るのか」ということである。つまり懐疑論者は「プラス」という語に関する私の現在の使用法が、私の過去の使用法と一致しているか否かを、いまの私がこれまでの加法に関する意図かに合っているか否かを問題にしているのである」
「私が過去において『+』という記号を用いたとき、私の意図は、『68+57』は125になるべきであるというものであったということに、私がいまどんなに確信を持っていようとも、そのようなことはありえない。そのようなことは、『68+57』という特定の事例において加法を行ったその結果は、125であると私が明示的に自分自身に指示したとしても、ありえない。なぜなら、仮定によって、そのようなことを私は指示しなかったのだから。
だが、この『68+57』という新しい事例において、我々は過去に何回も用いた関数や規則とまさに同一のものを用いるべきだろう。
しかし、と懐疑論者は続けるだろう。誰が一体、私が過去において用いたその関数がどんな関数であったと言うのか。過去において、私自身、その関数で計算をした具体的事例をただ有限個与えているのみである。私が考えた事例のすべては、57より小さな数の間の加法である。それゆえ、たぶん、私は過去において『プラス』と『+』を、私が『クワス(quus)』と呼び、『〇』によって記号的に表そうと思う関数を表すために用いていたかもしれない。
その関数は、
x,y<57の場合、x〇y=x+y
そうでない場合、x〇y=5
によって定義される。一体誰が、これは私が以前に「+」によって記号的に表そうと思う関数でない、と言えるのだろうか。懐疑論者は、私はいま、私自身のこれまでの使用方法を誤って解釈していると主張する」
「たしかにこんな懐疑的仮説は、突拍子もないだけでなく、疑いもなく偽である。しかし、あまりに突飛だとはいえ、これは決してアプリオリに、つまり、論理的に不可能な仮説だというわけではないから、もしそれが偽であるのなら、それを偽だして論駁するために引き合いに出せる『プラスという記号に関する私の過去の使用法についての事実』が存在するのでなければならない」
・ウィトゲンシュタイン『哲学探究』における通常の見解
「私的言語論」は第243節で始まり、それに直接続く諸節において展開される。第258節、第265節が有名。
・クリプキの見解
真の「私的言語論」は、第243節に先立つ諸節において見いだされる。第202節において、「私的言語論」の結論は既に明示的に述べられている。
「それゆえ、人は規則に『私的に』従うことは出来ない。なぜなら、さもないと、規則に従っていると思うことが、規則に従っていることと、同じになるから」
・ウィトゲンシュタインのアプローチの基本構造
①規則という概念に関して、ある問題、あるいはヒューム的用語を用いれば「懐疑的パラドックス」が提示される
②この問題について、「懐疑的解決」とヒュームなら言ったであろうものが、提示される
ウィトゲンシュタインのパラドックス:「我々のパラドックスはこうであった。即ち、規則は行為の仕方を決定できない、なぜなら、いかなる行為の仕方もその規則と一致させ得るから」『探究』201節
仮に過去において私が実際に行った加法計算が有限回にすぎないとしても、加法の規則は、もし私が規則を把握しているなら、私がまだ見たことも考えたこともない無限に多くの新しい加法問題に対して、私の答えを決定する=加法に関する私の過去の意図が、未来における無限に多くの新しい場合に関して、一意的な答えを決定する。
例えば、「68+57」が、私がまだ一度もやったことのない計算であるとして、いま私が実際にそれを計算して「125」という答えを得た場合、この答えは、
(1)68+57の和は125であるという算術的意味でも、(2)ここでの「+」は、私が過去にその記号を用いようと意図したときと同様に、私が「68」と呼ぶ数と「57」と呼ぶ数に適用すれば125という値をもたらす関数を表している、というメタ言語的な意味においても正しい。
「ここで私は、突飛な懐疑論者に出会ったと仮定しよう。彼は、私の答えに対する私の確実性に関し、『メタ言語的』な意味と呼んだ意味において、疑問を投げかける。彼の示唆するところによると、おそらく私が過去において『プラス』というタームを用いたとき、『68+75』に対して私が意図したであろう答えは、『5』であったにちがいない!」
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Hiroki Hayashi